法学部生が法の精神に敗北してしまう現実

批判の価値。ネガティブなコメントも読者に新しい知恵をもたらす価値がある。批判とは、それ自体が知的財産なのだ。そして元の著作者が利害関係者であれば、なおさら秘密裏に流通するのも無理はないだろう。しかし、批判家は、自分の批判を読んだひとを改めて自分の読者として考えなければならないだろう。批判家は、批判家としての自分についてきた読者の利益を誠実に考えなければならないだろう。道徳である。しかし、誰がためにそのような高尚に励むのかという人間的な疑問が立ちはだかるときもあるだろう。

法律を勉強してもいない人間が法的保護のグレーゾーンを巧みに捌きながら、実質的破廉恥行為をしている。法学部生と言っても様々なので、全く異次元に、プライドに傷がついてしまう者もいる。つまり、法律を学ぶ人間として実直に憤りを感じるもの、だけではなく、要は法学部が同じことをしたらもっと怖いよ?(やってあげようか)の方向性で悪意が湧く法学部生もいるのである。

道徳とは、法と同次元の概念としては、社会集団の慣習から、良心や善で形成される。法学教育には道徳教育の欠落が許されないものであるが、社会集団のスピンアウトとしての道徳が、個人的な体験を通じて形成される個人道徳と相反し、受け入れ難いものであれば、あるほど、結論から言えば機械的なアーキテクチャとして法を、社会問題の単なる処理ルールとして法を、悪魔の代弁ならぬ悪魔の勤勉でひたむきに学ぶ時間が増えるのだろう。信念なき苦役に修めた道具とはそれ以上でも以下でもないのである。

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